2016年 11月 07日
昔から父の作る食事が好きだった。 伊吹山の麓の田舎町の人だった父が作るものはいきおい塩味が強く、子供の舌にははっきりしたその味が心地よかったのかもしれない。 「ナウい奥様」を標榜していた感のある母親はレシピ本やなんかを参考に「おしゃれ」な食事を作ることが多くあったが、母親が臥せっている時や作りたがらない時は親父がキッチンに立っていた。 今考えれば、弟が生まれた時は母親が不在だったはずなので2〜3歳のホリエの食事は父が作っていたのだろう。 ホリエが中学生の頃からキッチンに立つことに抵抗がなかったのはそういう姿を見ていたこともあるのだ。 小学生の頃、夏休みなんかに早朝から仕事についていくとトラックの中で渡される弁当。 紫蘇漬けの真っ赤な梅干しがたっぷり入ったおにぎりや、味の付いていない白ご飯を砂糖と醤油で異常に甘辛く炊いた油揚げに詰めたお稲荷さん、これでもかと塩と青ネギを入れたしょっぱい卵焼き…。 小学生の胃袋には少々多めのそれらを夢中で食べた記憶が、父との夏休みの思い出。 分かりやすい味のものは自分なりの味付けで比較的容易に再現できる。 が、父が作っていたのはそれ以外にもあった。 職業として「鮎のあめだき」を炊いたり、ふなずしを漬けたり、鯉を調理したり、親戚の集まりでイノシシをバラしたり、様々な「プロの技」を持っていたのだ。 先日、請われて久しぶりに鮎を調理した際に「なんとなく」しかその調理方法を知らない自分に気づいて呆然とした。 小さい頃から何度となく調理過程を眺め、できたてを温かいうちに口にしていたホリエは軽々しい気持ちで引き受けたのだった。 魚をどう調理すればよいのかはもちろん知っている。 しかし、鮎という繊細な食材を自分が覚えているあの「あめだき」にするには父の技術が必要だったのだ。 四苦八苦しながらなんとか仕上げた「あめだき」は自分の記憶の中にあるものには程遠く、慎重に形の良いものを選んでなんとかテイを為して苦々しい思いで先方に渡した。 父が急に亡くなったので、今まで享受されるだけだったものの調理方法は「教えて」もらわず終いになってしまった。 あんなに形よく炊かれた鮎、塩梅の良いふなずしは永久に失われた。 自分の子供が成人した今、かつての父の気持ちがなんとなくわかるようになりこれから大人同士のコミュニケーションが持てる、という時に失った父親という存在はそういう意味でも大きかった。 世の中の人々に父の作ったそれらのものを食べてもらえなくなったのが返す返すも残念だ。 逆に、自分が作ったものを食べてもらえなくなったのも。 実は亡くなる数日前、膝を痛めた父を病院に連れていくために夜の予定を押して実家に帰っていた。 帰り際、男やもめにありがちなキッチンの有様を見て、手近にあった鶏肉で自分がよく作るハニーマスタードチキンを年寄りの口に合うように醤油の割合を多めにして仕込み「あとは明日にでもトースターで焼いて」と置いて戻った。 次の日、電話で話していると「あれ、美味かった」と感想をくれた父。 思えば自分が作ったものを食べてもらうことはあまりなかったなぁと反省して、これからは戻った時にできるだけ何か作って置いていこうと思った矢先。 味を伝えてもらうことも、自分の味を食べてもらうこともできなくなった。 教えて欲しい味も、食べて欲しい味もまだたくさんあったのだけれど。 人の人生において味は思い出であり資産であると思う。 食べさせてもらったり食べさせたり、ということで繋がっていく気がする。 そんなことを最近強く感じて、成人して食べるくらいは自分でなんとでもするようになった我が子にできるだけ自分が作ったものを食べさせる機会を増やそうと思った。 これで彼の中にホリエの味が刻まれていくことを願いつつ。
by radi-spa.horie
| 2016-11-07 12:31
| 食べ物&嗜好品
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